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人生山あり谷あり。
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135    3-12『一休(いっきゅう)さんと殿(との)さま』 댓글:  조회:3890  추천:0  2011-11-22
3-12『一休(いっきゅう)さんと殿(との)さま』   ―山形県―    一休和尚さんは、小僧さんのころからとても頓智(とんち)にたけたおひとだった。  まだほんの小僧さんなのに、大人(おとな)のけんかを頓智でまるくおさめたり、身分(みぶん)をかさにきていばっていたりしていると頓智でギャフンといわせたりするものだから、一休さんの人気はうなぎのぼりに高まったと。  評判が殿様の耳にもきこえた。  「最近、いい気になっているから困らせて呉(く)れよう」 というわけで、一休さん、殿様に呼ばれた。  お城にあがってみると、通された広間にはお侍たちがたくさんいて、その一番奥の一段高くなったところに殿様が坐(すわ)っていらした。  「おお、きたか。うむ、そちがうわさに聞く一休か。ああ、かしこまらなくてもいいぞ。そんなに遠くじゃ話が見えぬ。かまわんからそばに寄れ。よしよし、それでよい」  殿様、おつきの者がさし出した箱から何やらとりだして、両掌(りょうて)につつみこんだ。  「これ一休、そちはなかなか頓智に秀(すぐ)れていると聞くが、これは当てられるかな」  殿様は両掌を前に出し、一休さんに見えるように少しだけ両掌をひろげた。  「この掌(て)の中にあるのは雀(すずめ)だが、この雀、生きているか、死んでいるか、さあ、当ててみよ」  一休さんがまわりを見まわしたら、広間の両脇にずらーっと並んで坐っているお侍たちは、みなみなニャニャ笑って、答を知っているふうだ。  <おらが負けると思っている顔ばかりだな。ということ・・・、ふーん、そういうことか>  殿様の魂胆(こんたん)がピーンとひらめいた一休さん、にこにこっとした。  「はいっ。当てられないこともないけれど」 といいながら、タタミのヘリを股いで立ちあがり、  「その前におらのを当ててみて下さい。このタタミのヘリから、おらは右へ行くか、左へ行くかわかりますか。殿様が当てたら、雀が生きているか、死んでいるか、おらも当ててみますから」 といった。  あまりに予想外の答で、家来たちはハッとして殿様の顔を見た。殿様、顔をまっ赤にして一休をにらんでいる。  「うーん。まいった。予(よ)の負けじゃ」 といわれた。殿様は、一休さんが、雀が生きていると答れば雀の首をひねって殺し、死んでいるといえば生きたまま出して見せるつもりだったと。  魂胆をさか手にとられて負けた殿様、くやしくてならない。くる日も、くる日もよい智恵はないかと思案していたら、襖(ふすま)の絵が目についた。殿様、難問を思いつかれた。  「うーん。これなら一休をギャフンといわせてやれる」 というて、喜んだ。  また、一休さんが呼ばれた。  「これ一休。そこの襖の虎を縛(しば)ってみよ」  殿様が閉(と)じた扇子(せんす)でさす方を見ると、襖には、ガンク、ガンカイといって、昔は虎を描(か)かせたら世界一といわれたガンクの描いた虎が竹林(ちくりん)から目をランランと光らせて一休さんをにらんでいる。牙をむいて、今にも襲いかかってきそうだ。緊張感がピーンと張りつめて、そのすさまじさは絵と判っていても身のすくむ思いがする。  絵に見とれている一休さんに、殿様、  「どうだ、なんぼ一休でも絵に画いた虎は縛れまい。こうさんするか」 と、とくい顔でいわれた。  そしたら一休さん、にこにこして、  「いえ、描いた虎でも何でも縛る。ですが、おらの縛り方は投げ縄でとらえてから縛るやり方で、虎を追い出すセコがいります。このままでは、竹薮(たけやぶ)がじゃまになって何とも仕様がないから、殿様、虎を追い出して下さい。おら、こっちで待っていますから」 というた。  殿様、これには何ともしようが無くて、また負けてしまったと。  どんびんからりん、すっからりん。    
3-11『爺(じい)はじっとしとれ、婆(ばあ)はバ―ッとしとれ』   ―兵庫県―    昔むかし、ある所に爺さんと婆さんがおったそうな。  爺さんは毎日山へ木ィ伐(き)りに、婆さんは川へ洗濯(せんたく)に行っていたと。  あるとき、爺さんが山で飯食(ままく)おうと切り株に腰かけたら、「チッ、チッ」と鳥が啼(な)く。  「どこで啼くじゃろ」 といって、あたりを見わたして探(さが)してみたが鳥は見あたらん。  「近くで啼いたようだったがな。まあ飯食うじゃ」 といって、飯食いかけたら、また「チッ、チッ」と啼いた。  「ありゃ、尻(しり)の下で聞こえた」  爺さんが腰掛けていた切り株を見たら、穴があった。そこへ手を入れたら小鳥が手にさわった。やんわり握(にぎ)って出してみたら雛(ひよこ)だった。  「放(ほお)ってぇたら死ぬるなあ」  爺さんはその雛を持って家に戻った。  「婆さん、ええ物(もん)拾うて来た。これを見ぃや」  「あら、まんたヒヨコじゃのう。どなぇしたじゃぇの」  「うん、飯食おうと腰かけたら、切り株の中におった。放ってぇたら死ぬるから拾って来たわいや。面倒臭(めんどうくそ)うても飼(こう)うちゃろいや」  「ふん、飼うちゃるとも、私等(うらら)ぁにゃぁ子が無ぇじゃし、可愛ぇがっちゃるがの」 というて、ふるいを伏せて飼(か)ってやったと。  飼っているうちにだんだん大きくなって、ふるいではせまっくるしくて飼えなくなった。  で、二人は相談して、元の山へ放してやることにした。  二人で木ィ伐り山のふもとへ行って、  「小鳥ぃやぁ、うちゃぁ貧乏で鳥籠(とりかご)はなし、放ぇちゃるで好きなとこへ行(い)て大きゅうなれ」 というて放してやった。  そしたら小鳥は、はじめは飛び方もおぼつかなくて、婆さんの頭にとまったり、爺さんの肩にとまったりしていたが、ようやく山の中へ飛んで行ったと。  「チッチがいのうなったら、なにやらさみしゅうなったわいや」  「私(うら)も」 といいあって、こ半月(はんつき)たったある日、軒先(のきさき)へ小鳥が飛んで来て、  「爺は木ィ伐り山でじぃっとしとれ。   婆は洗濯川でバァーとしとれ」 というて啼いた。  爺さんと婆さんは、何のことをいうているのかようわからなかったが、可愛がっていたチッチがそういうのだからというて、二人とも小鳥の言う通りにしたと。  爺さんが山でじいっとしていると、兎(うさぎ)が出てきて、着物の前からちょろっとのぞいているチンチン山芋(やまいも)と間違えて、股の間に入って来た。爺さん、そいつをつかまえて戻ったと。  婆さんが川で股ァ拡(ひろ)げていたら、鰻(うなぎ)や鯰(なまず)や鮒(ふな)が、なんぼでも寄って来るので、そいつを捕まえて戻った。  二人は、それらを売って金持ちになったと。  
133    3-10『売桝(うります)、買桝(かいます)』 댓글:  조회:3763  추천:0  2011-11-22
3-10『売桝(うります)、買桝(かいます)』   ―山梨県―    むかし、あるところに、米、味噌、正油を売る店があったと。  いく代(だい)も続いて信用もあったのだが、どうしたわけか、だんだん身上(しんしょう)が傾(かたむ)いてきた。  店の老夫婦は何とかして元通りに繁盛(はんじょう)させたいものだと、二人で相談して、「売桝(ます)」と「買桝」、それと、「売計(ばか)り」と「買計り」を作った。  売桝の方は正しい桝より少し小さく、  買桝の方は正しい桝より少し大きい。  売計りの方は正しい分銅(ふんどう)より少し軽くし、  買計りの方は正しい分銅より少し重くしたと。  仕入れるときは正しい目方(めかた)より少し多めに、  売るときは正しい目方より少し少なめに  こういう具合にすれば買いと売りとで両方余計に儲(もう)かるという寸法だ。  卸問屋(おろしどんや)もお客も欺(だま)されて、店はだんだん身上がよくなってきた二人してほくそ笑(え)んでいたと。  ところが、しばらくすると、  「このごろ、あの店の桝目はこすくないか。どうも吝(けち)くさい」 と評判になって、客足が遠のきはじめた。  卸問屋の方でも、  「あの店は、どうも勘定(かんじょう)より余計に品物を取られているような気がしてならん」 というて、取引するのを、だんだん嫌がるようになったと。  こうして、買い手も売り手も寄りつかない有様となって、店は前よりますます傾く一方になったと。  ちょうどその頃、この店には年頃の息子が一人あった。  方々(ほうぼう)探して、ようやく嫁の来手(きて)が見つかったと。  その嫁は望外(ぼうがい)の働きものだった。商(あきない)が好きとみえて、店に出たがるのだと。  老夫婦は、「売桝」「買桝」と「売計り」と「買計り」がばれると困る。嫁に、  「家の中のことをやっとればいいで」 というて、自分たちだけで店働きをしていたと。  嫁は、そうは言われても商好(あきないず)きだったから隙(すき)をみつけては二人の様子をじいっと見ていた。とうとう「売桝、買桝」の秘密を見破ってしまったと。 「ははぁん、評判の悪いのは、あのせいだな」 と悟(さと)った嫁は、ある日、老夫婦に、  「おらに店をやらしてけれ、それがいやなら、おら実家(さと)に帰らしてもらいます」 というた。  傾きかけた身上で嫁に帰られてはなを困る。老夫婦は嫁に店働きをかわってもらうことにしたと。そうなれば二(ふた)とうりの桝と計りは嫁には見せられん。火にくべようとした。そしたら嫁は、  「ぜひそれを、おらに譲(ゆず)っておくんなさい」 というた。  それらを譲ってもらった嫁は、次の日から店に出て、老夫婦とは逆のことをはじめた。  小さめの売桝で卸問屋から物を仕入れ、大きめの買桝でお客に物を売った。  それを見た老夫婦は、  「ただでさえ傾(かし)ぎかかっとるのに、あんなことをされては大損(おおぞん)だ」 と気が気でない。  ところが、買い手が家に帰って、試(ため)しに買ったものを計ってみたら十二分(ぶん)に多い。卸問屋でも勘定してみると、得をしている。  「あの店も嫁の代になったら大変勉強するようになった」 と評判がたち、客は押しかける、卸問屋も競争でやって来て、良い品を安く卸して行くようになる。こんな有様で、店はみるみる大繁盛したと。  いっちんさけえ。  
132    3-9『曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)』 댓글:  조회:4344  추천:0  2011-11-22
3-9『曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)』   ―山形県―    むかし、むかし、秀吉(ひでよし)の時代に新左衛門(しんざえもん)ていう刀の鞘師(さやし)いだったど。  新左衛門がこしらえる鞘は、刀がソロリ、ソロリと抜けて、まごとに具合(ぐあい)がええ。天下一の名人だていうなで、誰しも新左衛門のことを、曽呂利(そろり)、曽呂利、と呼ぶようになって、いつの間にか曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)と名がついだと。  あるどき、秀吉がひどく病気して、なんだか分らねんど、段々(だんだん)衰弱(すいじゃく)していぐ。  ほだえしているうち、盆栽(ぼんさい)の松の木、枯(か)れでしまった。ほうしたれば秀吉、なおさら気落(きお)ちしてしまって、  「余もこれきりだ、おしまいだ」 て、なげいで、日に日にやせ衰(おとろ)えて行った。  何とかええ医者どの居ねべか、何とかならねべか、ていうてるうちに、新左衛門が、ほこさ行って歌詠(うたよ)んだ。  御秘蔵(ごひぞう)の常盤(ときわ)の松(まつ)は枯(か)れにけり  千代(ちよ)の齢(よわい)を君(きみ)にゆずりて  こういうふうに詠んだ。ほうしたけぁ、秀吉、  「はあそうか、松の木はおれの身代りになって呉(け)だか」 て、ほだえして気分ええぐなってるうち、薄紙はぐようにだんだん良(え)ぐなった。ほしたけぁ、  「これ、新左衛門、なにかお前にお礼をしたい。望むものはないか」  「いやいや、上様(うえさま)、一か月間の一文(いちもん)の倍増(ばいまし)しで結構でございます」  「ああ、新左衛門、一文の倍増しとは、どういうことだ」  「はい、第一日目は一文、二日目は二文(にもん)、三日目は四文(よんもん)でございます」  「そうか、何だ、子供の小遣銭(こづかいせん)にもならねほどで、お前は満足するのか」  「いやいや、そうでないげんども、この位にさせて戴(いただ)きます」  「欲のない男だな。よし、んたらば」 ていうて、会計係さ命じて渡したど。  八日経(た)ったれば百二十八文になる。十日経ったれば五百十二文になった。二十日経ったれば五百二十貫二百八十八文になった。  「ありゃおかしい」 ていうわけで、会計係ソロバンはじいてみておどろいた。三十日になったら、何と馬車二十台で運ばんなねことになる。  「いやいや、こんではとても適(かな)わね。   新左衛門、新左衛門、余が参った。一ヶ月でねく、二十日間で、まず勘弁(かんべん)して呉ねが。ほのかわり、他(ほか)にもう少しお前さやっから」  「はい、結構でございます。んでは、他に戴かせてもらいます」  「何だ」  「袋さひとつ分、米頂戴(ちょうだい)したいげんど」  「おお、そんな、ええどこでない」  「んでは、四、五日後にもらいにあがりますから、お倉番さそういうふうに言うてで呉(け)らっしゃい」  ほうして、四、五日経ったら、馬車何台もと紙袋ひとつ持ってお城さ行った。袋ひろげで、  「このお倉の米、全部頂戴して帰ります」 て言うたれば、お倉番がぶっ魂消(たまげ)た。ほして秀吉のとこさ走って行った。  「実は新左衛門がやって来まして・・・」  「ああ、一袋ぐらい呉てやれ」  「いや、その、実は、その袋というのが、またどでかいもんで、すぱっとはぁ、倉さかぶせてしまったはぁ」  「うん、武士に二言(にごん)はない。その倉は新左衛門に渡せ。余の命なかったかも知れんと思えば、安いもんだ」 ていうわけで、銭五百二十貫二百八十八文と、倉ひとつの米、そっくりもらったけど。  どんびんからりん すっからりん。  
131    3-8『モグラと馬(うま)と人間(にんげん)』 댓글:  조회:3723  추천:0  2011-11-22
3-8『モグラと馬(うま)と人間(にんげん)』   ―山梨県―    日本(にっぽん)は細長い国で、南と北では季節感がすこうしずれているわねぇ。でも、五月の今ごろは農家は、日本のどこもかしこも田や畑の仕事で大忙しの季節。  南国では、もう、田の苗植(なえう)えも畑の種植(たねう)えも終えてひと息ついておろうが、北国では、今が田の代掻(しろかき)や畑の畝(うね)おこしでご苦労のまっ最中でありましょう。   代掻ちゅうても、農家でないお人(ひと)には馴染(なじみ)のない言葉でわかりませんかねえ。  代掻というのは、田植えをする前の作業で、田に水を充(み)たしてから犂(すき)で土塊(つちくれ)をおこして砕(くだ)き、田の土面(つちづら)を平(たいら)にする作業で、普通は、荒代(あらしろ)、中代(なかしろ)、植代(うえしろ)と三回やります。これをきちんとやっとかないと、田から水モレがおきますし、せっかく植えた苗のつきが悪かったり稲の育ちも悪くなります。  代掻は、今でこそ機械化されて農業用トラクターでやりますから大分楽になりましたが、昔は牛や馬に犂をひかせてやっておりました。  子供か女が牛か馬の鼻とりをしてひっぱり、力のある男衆(おとこし)がそのうしろから犂を土に押しつけてやったものです。  牛も馬も人も泥まみれでやったつらい作業でありました。  畑仕事でも畝おこしは、たいがいは人が鍬(くわ)や鋤(すき)でやったものです。  そんだけ苦労しても、モグラが穴を掘るので、モグラ叩きはかかせません。  田畑の仕事には人と馬とモグラがついてまわりますが、これは、なんでも神さまがお決めになったことなんだそうです。  昔むかしの大むかしに、国じゅうがひどい飢饉(ききん)にみまわれまして、食べ物にひどく困ったことがあったそうです。  ある日馬と人間が道で出合って、食べ物がなくて困る話をしていると、そこへモグラがやってきて、  「俺たちがこんなに困っているのに、神様のお蔵(くら)には穀物(こくもつ)がギッチリ積(つ)まっているっちゅうこんだぞ」 といいました。馬が、  「俺も聞いたが、神様はいっこうに分けてくれるふうでもないなぁ」 というたら、モグラは、  「ケチな神様なんか、糞(くそ)くらえだ。いっそ押し込んでやるべ」 といいました。人間が、  「おそれおおいこというな。俺はそがいな罰当(ばちあた)りなことはいやどぉ」 というたら、モグラが  「なあに、かまうこたぁねえ。ケチ神(がみ)のところから穀物を盗み出さざあ」 というて、馬と一緒に出かけましたそうです。  神様のところへ忍(しの)んで行って、モグラが地面に穴を掘ってお蔵の床下(ゆかした)を破り、穀物を盗み出した。それを馬が背中に乗せて、急いで逃げた。遠くへ遠くへ駆(か)けていって、  「ここまで来りゃぁ、もうええな」 というて、モグラと馬とで腹いっぱい食べたといいます。  しかし、神様の物を盗ったのですから、神様に知れないわけにはいきません。二日ばかりするうちにやっぱり神様に知れた。モグラと馬と人間は神様の前に呼び出されて、お裁きを受けることになりました。  神様は先(ま)ず人間に、  「お前は悪さをしとらんな。だが、お前はモグラと馬が悪さをするのを知っとりながら止(と)めなかったので、苦労しないで食べ物を得(う)ることはならん。明るい娑婆(しゃば)で、畑へ作物を作って暮らせ」 とおっしゃられて、穀物の種をくれ、その作り方をも教えて下さった。  次に馬に向って、  「お前はかついで逃げたので、これからは一生の間、人間に使われて荷を運べ」 といいつけ、おしまいにモグラには、  「お前が一番悪い。地を掘って蔵に穴をあけたので、明るい娑婆に置くわけにはいかぬ。あしたから土に潜(もぐ)って地の下で暮らせ」 といいわたされました。  それで人間と馬とモグラは今に至(いた)るもそのように暮らしているのだということです。  いっちんさけえ。  
130    3-7『貧乏神(びんぼうがみ)』 댓글:  조회:3779  추천:0  2011-11-22
3-7『貧乏神(びんぼうがみ)』   ―兵庫県―    昔あるところに一人の貧乏(びんぼう)な男がおった。  男は、食う物ぁ食わんとっても、寝とる方がええというほど仕事嫌いだったと。  ある年の節分(せつぶん)の晩に、豆まきもせんと囲炉裏(いろり)の横で煎餅布団(せんべいぶとん)にくるまって寝ていると、天井裏(てんじょううら)から妙な者(もん)が降りて来た。片目を開けて見たら、病(や)みあがりのように痩(や)せ、髭(ひげ)は伸び放題(ほうだい)に伸び、頭ぁ箒(ほうき)のように逆立(さかだ)った人相(にんそう)の悪い年寄だ。  「お前は、何者だいや」  「儂(わし)ぁなげぇ間(あいだ)厄介(やっかい)になっとる貧乏神(びんぼうがみ)だ」  「何しい降りて来ただいや」  「うん、もうそろそろ暇(いとま)しよう思うてな」  「そうか、そりゃ結構だ。俺(おれ)もその方がありがてい。一刻(いっこく)も早う出ていってくれぇ」  男は寝たまんまで、  「起きるのもおっくうだから、戸はちゃんと閉(し)めてってくれえよ」 いうたら、貧乏神が戸口で振り返って、  「おう、忘れて出よった。まごう世話になった礼に、ええこと教えてやる。  明日の朝早うに、前の道ぃ出て待っとれ。宝物を積んだ馬が通る。  一番前(さき)の馬には金と銀を積んどる。  二番目の馬には、綾(あや)や錦(にしき)の織物が積まれ、  三番目の馬、これが終(しま)いじゃが、珊瑚(さんご)や瑪瑙(めのう)なんぞが積まれとる。  そのどれでもええ。棒で叩(たた)いたら、それぁお前の物になる。しっかりやれよ」 というて、戸を閉めて出て行ったと。   男は、そうゆうことなら明日ぁ早起きして、三つとも叩いてやろう。長い棒で横なぐりにした方が叩き易(やす)かろう、と思案しながら眠ったと。  朝方、まだうす暗いうちに目がさめた男は、もう起きにゃぁなるまえ、と思ったけど、いつもの怠(なま)け癖(くせ)でなかなか起きられん。それでも、  「あいつの言う通りなら、どれひとつなぐってもいっぺんに分限者(ぶげんしゃ)になれる。試(ため)してみるか」 いうて、しぶる身体をむりやり起こして、長い竿(さお)かついで家の前の道に出て待っとったと。  けど、一番先の馬ぁすでに駆け抜けたあとで、二番目の馬が走ってきた。男は、  「やぁ、本当に馬がかけてきたぞ。あいつの言う通りなら、あれが金銀の馬だな。ようし、そうれっ」 と、長い竿を振りまわした。竿の先が木の枝に引っ掛かって、馬はその下をくぐって走り抜けたと。 「やぁしまったぁ。竿が長過ぎたか」 いうて、今度(こんだ)ぁ短い竿を持って待っていると、三番目の馬が走って来た。  「よし、あれは綾や錦を積んどる馬だな。もう俺の物だ。え―い」 と、短い竿をぶんまわした。竿が短(みじこ)うて届かなかったと。  「やぁ、しまった。また、しくじった。竿が短過ぎたか」 と、くやしがって、今度ぁ、もう少し長い竿を持って待った。  また、馬が走って来るので、  「こいつが三番目の珊瑚や瑪瑙の馬だな。なにがなんでもぶちあてて分限者になってやる。そうれっ」 と、思いきり横なぐりにした。今度ぁ手ごたえがあった。  やれ嬉しや、と思ったら、その馬には昨晩(ゆんべ)の貧乏神が乗っとって、  「儂ぁ、今年ぁ他家(よそ)で暮らそうと思っとったに、また、厄介になる」 と、いうたと。  いっちこたあちこ。  
129    3-6『狐(きつね)の嫁入(よめい)りと爺(じ)ンちゃ』 댓글:  조회:4000  추천:0  2011-11-22
3-6『狐(きつね)の嫁入(よめい)りと爺(じ)ンちゃ』   ―福島県―    むかし、福島県の浜通(はまどう)りにある村に、ひとりの爺(じ)ンちゃが住んであった。  お正月も近くなったある日、町へ買い物へ出かけたと。  その戻り道(みち)でのこと。  爺ンちゃは買いこんだいろんなものを背中に背負(しょ)い、片手に荒巻(あらまき)き鮭(じゃけ)をぶらさげ、もう片手に提灯(ちょうちん)を持って、ざとうころばしに差しかかった。左手は夏井川(なついがわ)で、右手は山の寂(さび)しいところになっており、昔、ざとうがよく転んだために、そう呼ばれるようになった所だ。  あたりはもう真っ暗、足元(あしもと)を照らす提灯のあかりをたよりに、ここからは、そろりそろり行かにゃぁ、と気を引き締(し)めたとき、うしろの方で何やら大勢(おおぜい)の人が来る気配(けはい)がした。  降り返えると、二丁ほど離(はな)れたところをたくさんの提灯が登ってくる。  どうやら嫁入(よめい)り行列のようだ。  「こんな時間に珍(めずら)しい。そうじゃ、あの人たちと一緒に行けば淋(さび)しいざとうころばしも賑(にぎ)やかに越すことが出来るわい。さて、一服つけて待つか」 というて、道の脇(わき)の土手(どて)に腰を下(お)ろし、塩鮭(しおじゃけ)を片わらに置いて、きせるの煙草(たばこ)を吸いはじめたと。 「うーん、なかなか美しい行列なもんだ。つのかくしをしているから、あれがお嫁さんかな。タンス、長持ちもある。豪勢(ごうせい)なもんだ」 と、行列をながめながら待っていたが、そのうち妙(みょう)なことに気がついた。いくら待ってもその提灯行列が、なかなかこっちに近づいてこんのだ。いつまで経っても、向こう二丁ぐらいのところを歩いている。道は一本しかないのに、これは奇妙だ。  「さては、あの行列は狐(きつね)の嫁入りかな。うかうかしていると、正月仕度(じたく)をとられてしまうわい」 と急いで立ち上がった。もいちど振り返ったら、提灯行列の灯(ひ)がすっかり消えて、真っ暗闇(くらやみ)になっておった。  「やっぱり狐の嫁入りであったか。早く気がついてよかったわい」 というて、ほっとして歩き出したと。  しばらく行くと、行く手に提灯の明かりが見えた。夜目(よめ)をすかして見ると、娘がひとり立ち止まって、爺ンちゃを待っているふうだ。  近づくと、娘は、  「どうも寂しくて困っていました。爺ンちゃ、どうか送って下さい」 という。  爺ンちゃは、淋しいざとうころばしを娘と行けるので心楽しく思い、二人連れだって行ったと。  ざとうころばしも無事に過ぎ、ほっとして、後ろからついてくる娘に、  「いま、狐の嫁入りを見た。いやぁきれいな行列じゃった」 と話しかけていると、行き手に、見なれない橋があった。  「はて、こんなところに橋があったかな」 といぶかりながら、その橋を渡ろうとして一歩踏(ふ)み出した。  そのとたん、橋は消え、爺ンちゃは、あっという間に川にはまってしまった。  荒巻き鮭と、若い娘は、どこかに消えてしまったと。  ざっとはらった。  
128    3-5『女房(にょうぼう)を出(だ)す戸口(とぐち)』 댓글:  조회:4199  추천:0  2011-11-22
3-5『女房(にょうぼう)を出(だ)す戸口(とぐち)』   ―岩手県―    むがすあったじもな。  あるどごに夫と女房があったど。  夫は、隣の女房が常日(つねひ)ごろ化粧ばかりしているので、ばかにいい女ごに見えただ。惚れだど。  家(うち)の女房は働くことばかりして身形(みなり)はかまわぬ。みだくなし女に見えた。褪(さ)めだど。  ある日、夫は女房に、  「お前はみだくなしだによって、ひまを呉(け)るはへ(ので)と、出て行け」 と言うた。  そこで家の女房はあきらめで、家を出はって行く気で、湯さ入り、お歯黒をつけだり、髪を結っだり化粧したらば、隣の女房よりも一段とよい女ごになっだ。  夫は目ぇぱちくりかえして、ひまを呉でやるのが急に惜しぐなっだど。  その女房、夫の前さ手をついで、  「私も今日までお世話になりまして、ありがとうござんした」 ど礼を述べて、  「それではお前さまも達者でいでくだされ」 どで、ひまをとり、台所(だいどころ)から土間(どま)の戸口(とぐち)さ行ぐと、夫が来で、その出口さ立ちふさがっだ。  「ここは俺(おれ)の戸口だがら、ここがら出るな」 と、とめる。女房は表口の玄関さ行って、そこから出べとしたら、夫がそこさも立ちふさがって、  「ここも俺の玄関だから、こごからも出るな」 ど言っだ。  そごで今度(こんだ)ぁ、座敷の縁側から出はべとすたれば、また、そごさもふさがって、  「こごも俺の縁側だから出るな」 ど、止めだど。  女房、あぎれで、  「それでは出て行ぐ戸口はないがら、私に出て行くなてしか(ということか)」 ど聞ぐど、夫は、  「うん出て行ぐな」 言っだど。  女房は装(よそお)いをほぐしで、元のとおり家にいるごどになっだら、夫は、それから隣の女房さ通わねぐなっだど。  どっとはらい。  
127    3-4『亥(い)の子(こ)祝(いわ)いの起(お)こり』 댓글:  조회:3676  추천:0  2011-11-22
3-4『亥(い)の子(こ)祝(いわ)いの起(お)こり』   ―愛媛県―    むかし、ある山里(やまざと)に娘とおっ母(か)さんとが暮らしておったと。  山の畑には真ん中に大っきな石がデンと座っていて、じゃまになって困っていたと。  あるとき、娘とおっ母さんがこの畑を耕(たがや)しながら、  「石がないと作物もようけとれるのに」  「そうやなあ」 と話をしていたら、藪(やぶ)の葉蔭(はかげ)で猪(いのしし)がそれを聞きつけ、景色のいい若者に化けた。そして、  「わしがその石、のけてやろか」 と声をかけた。  娘とおっ母さんは、びっくりして声のした方を見ると、藪をかきわけて若者が近づいてきた。  「あんた、どこのひとやぁ」  「わしは、この山向こうに近頃(ちかごろ)住(す)みはじめたもんだ」  「そうやったかねぇ?どこから来たん」  「それより、その石、困ってるんやろ」  「なに、そんなこと言うたって、この大石(おおいし)がのけられるもんかね」  「のけたら娘を嫁にくれるかい」  おっ母さんは、この若者が山向こうに住みはじめたという話も聞いていないし、素性(すじょう)の知れんこんなやさ男に石がのけられるはずもないと、たかをくくって、  「のけたら嫁にやるわ」 と言うたと。  そしたらなんと、ほんとに取(と)り除(の)けてしもうて、けっこうな畑になった。若者は、  「明日(あした)、迎えに来る」 といいおいて、藪をこいで山向こうへ姿を消したと。  次の朝、おっ母さんが、どうしょうこうしょう、とおろおろしているところへ、景色のいい若者が迎えに来た。娘は、  「約束したものじゃけに、しょうがないわ」 というて、藁(わら)を大っきくひとくくりすると、聟(むこ)に背負(しょ)わせて、一緒に山を上(あが)って行ったと。  娘は聟の後(あと)からついて行きながら、昨日(きのう)、石を除けるときの若者の姿を思い出していた。  後足(うしろあし)で二度三度土をかくようなさま。  両手、両足を土にめり込ませながら肩で大石を押し切ったさま。  ついに大石は畑の斜面を山下(やました)に転がり落ちていったのだと。  そしていま、目の前を藁の大束(おおたば)を背負って歩いていくさまも、どこをどうとははっきりしないが、どこか人間離れした足の運びだ。  娘は、この聟は化物に違いないと思うた。  どうにかして殺さないかんと思案しながら山の上へ上へとついて行ったら、茅(かや)がたくさん生えた所へ差しかかった。  ここだ、と思うて、聟が背負っている藁に火を点けたらボウボウと燃えた。聟が、  「アチ、アチッ、アチチィッ」 と叫(おら)んだとたん、化けの皮がはがれて元(もと)の猪の姿にもどったと。  アチーと叫んではあっち走り、アチーと叫んではこっち突っ走りしているうちに、茅にも燃え移って、火に囲(かこ)まれた猪は、とうとう焼け死んだと。  娘とおっ母さんは、また、山の畑を耕した。  ところが、この年いっこうに作物が稔(みの)らん。  拝(おが)み屋に拝んでもろうたら、猪の祟(たた)りじゃという。  娘とおっ母さんは、猪のとむらいをして、供養したと。  そしたら、次の年には、以前にも増して作物がようけい出来たと。  毎年、余った作物を売って、だんだん暮らし振りもよくなった。やがては娘に人間の聟をもらって、子もたくさん産まれ、一生安楽に暮らしたと。  昔にこんなことがあって、「亥(い)の子祝(こいわ)い」の祭りが始まったと。  陰暦(いんれき)十月の亥の日の亥の刻(こく)に亥の子餅(もち)や、亥の子団子(だんご)を食べながら、    インノコ ネコノコ ネズミノコ    ユンベ生まれたウサギのコ と、おまじないを唱(とな)え、万病(まんびょう)を防(ふせ)ぎ、子孫繁盛(しそんはんじょう)を祝うのだそうな。   むかし こっぷり。
126    3-3『籾(もみ)とおしと天狗(てんぐ)さま』 댓글:  조회:3559  추천:0  2011-11-22
3-3『籾(もみ)とおしと天狗(てんぐ)さま』 ―鹿児島県種子島―    網(あみ)の目や篩(ふるい)や笊(ざる)や籾(もみ)とおしのように、目のたくさんあるものをとおしては、ものを見てはいけないといわれています。  幸(さち)が逃げるとか、災(わざわい)がふりかかるとかいうお人もいますが、どうしてかは、よく分かりません。この話がそれとどうつながるのかも。  むかし、ある男が籾とおしをかぶって、  「天狗(てんぐ)さま、天狗さま」 といいながら歩いていたと。松の木の側(そば)へ行ったら、ちょうど木の枝に天狗さまが休んでいたと。  「おい、お前(ま)やあ、なしかぁおれの姿が目ぇかかっとかあ、おれぁ隠蓑(かくれみの)をば着とるから見えんはずじゃが」 と、大声でたずねた。  男は、まさか本当に天狗さまと会えるとは思ってもいなかったのでびっくりした。が、なかなか気転(きてん)のきく男だったので、  「いや、これだけの目数(めかず)でみりゃぁ、天狗さまの姿なんざぁ、よう見え申すよ」 というた。  天狗さまは、そう聞くと、その籾とおしが無性(むしょう)に欲しくなった。  「お前の籾とおしと、おれの隠蓑とを、ちょっとの間(ま)とりかえてくれんか」 というた。男は、  「かえようわい。じゃばって、そのかわり聞かぁておくじゃり申さんか。いったい、天狗さまは何が一番きらいでおじゃり申すか」 と聞いた。天狗さまは、  「おれぁグミの木が一番きらいじゃ。あのそばにゃ寄りつきゃならん。ところで、そういうお前やぁ、何が一番きらいか」 と聞いてきた。男は、  「おらあ餅(もち)が一番嫌いでござり申す」 と、まじめくさって答えてやった。  こうして、天狗さまの隠蓑と男の籾とおしを、お互にとりかえたと。  隠蓑を手にした男は、すぐにそれを身につけた。そのとたんに男の姿は見えなくなった。  天狗さまは、早速(さっそく)、籾とおしの不思議な力をためそうと、それをかざしてみたが、男の姿はまるで見えん。  「これぁだまされた。こらっ、おれの隠蓑を早よ返せ」  天狗さまは鼻を真っ赤にしながら、かんかんに怒(おこ)って叫んだと、  男は、ときどき、ひょいと蓑をはずしてわざと姿を見せては逃げる。  天狗さまは、男のあとを夢中(むちゅう)で追いかける。  男は、こうして、天狗さまの一番嫌いなグミの木の下に行って隠れたと。  天狗さまは寄りつくことが出来ん。いっとき、どこかへ飛んで行ったかと思うと、すぐに餅を持ってきて、男めがけてどんどん投げつけた。男は、恐い、恐いちいいながら、その餅を拾うては食い、拾うては食いしたと。  天狗さまというものは、三日間隠蓑をつけないでいると、たとえ取り返しても、もう効(き)き目はなくなるそうな。だから、天狗さまは必死になって、三日間、餅を投げ続けたと。が、男はへこたれるどころか、ますます元気になった。  隠蓑は、とうとう男のものになったと。  天狗さまは真っ赤になって怒り、空を高く高く昇って行って、高みから男めがけて小便をしたと。ところが、ちとそれた。おまけに、あまり勢(いきお)いよくやったので、近江(おうみ)の平野を掘りさげて、そこに小便がたまって湖が出きたと。  「こらいけん」  天狗さまはすっかりあわてて、こんどは籾とおしをあてて小便をした。小便は雨となって空一面に散らばったと。ところが大地(だいち)にはそれがいい薬となって、草木は繁(しげ)る、穀物(こくもつ)は稔(みの)るで、人間世界はしあわせになるばかりだと。  そんなある日、男が出かけた間に、女房が押入れの奥の茶箱(ちゃばこ)を開けてみたら、こ汚(ぎた)ない蓑がしまってあった。  「こんな汚ないもの、こんげなところに入れて」 というて、かまどの火にくべて焼いてしもうた。  それで、隠蓑はこの世からなくなったと。  そしこんむかし。
125    3-2『目上(めうえ)の意見(いけん)と茄子(なす)の花』 댓글:  조회:3722  추천:0  2011-11-22
3-2『目上(めうえ)の意見(いけん)と茄子(なす)の花』   ―山口県―    むかし、あるところにお寺があって、和尚(おしょう)さんと小僧さんが住んでおったと。  あるとき、小僧さんが修行(しゅぎょう)に出ることになったと。  小僧さんがお寺の門のところまで行ったらうしろから和尚さんが、  「小僧、小僧、ちょっと来い」 と呼んだ。小僧さんは、  「何でござりますか」 といって戻ると、和尚さんは、  「あののう、途(と)ちゅうでどねえなことがあっても、柱(はしら)のない家(いえ)に宿(やど)をとるなよ」 というた。  小僧さんは、柱のない家なんどがあるもんかい、と思うたが、和尚さんのいわれることなので、  「はい、よろしゅうござります」 と返じをして出かけた。また門まで行くと、  「小僧、小僧、ちょっと来い」 と呼ばれた。  「何でござりますか」 といって戻ると、和尚さんは、  「あののう、旅に出て宿をとったとき、亭主(ていしゅ)より女房(にょうぼう)の方が大事にしてくれる家にゃあ、気ぃつけよ」 というた。小僧さんが、  「はい、よろしゅうござります」 と返じをして門まで行くと、また、  「小僧、小僧、ちょっと来い」 と呼ばれた。 「何でござりますか」 といって戻ると、和尚さんは、  「あののう、ねずみが劫(こう)を経(へ)たらコウスイちゅうモノになって、人を捕(と)って喰(く)うてぃや」 というた。小僧さんは、  「はい、わかりました」 といって、やっとお寺を出て行ったと。  いくがいくがいって、峠道(とうげみち)を歩いていたらにわかに黒雲(くろくも)が湧(わ)いて大夕立(おおゆうだち)が降ってきた。  この先の道端(みちばた)に崖(がけ)の土(つち)をかき出した洞(ほら)があったので、おおあわてでその中に入って雨が止むのを待ったと。  なにげなく雨粒(あまつぶ)を見ていたら、ひょいと、和尚さんのいわれた「柱のない家に宿をとるな」とは、このことじゃろうかい、と気がついた。それで洞から出た。そのとたん、なんと、洞の天井(てんじょう)の土がドサンとくずれ落ちた。  小僧さんはあぶないところを助かったと。  また、いくがいくがいくと日が暮れてきた。小僧さんは、野中(のなか)の一軒家(いっけんや)に泊めてもらったと。 その家(や)の女房は、風呂をわかしてくれたり、ごちそうしてくれたり、かいがいしく世話をやいてくれたと。が、亭主は囲炉裏(いろり)にあたっているばかりで、小僧さんをあまり見ないようにしているふうだ。  小僧さんは、和尚さんのいわれた、「亭主より女房の方が大事にしてくれる家にゃあ、気ぃつけよ」とは、この家のことかな、と思い気をつけることにしたと。  小僧さんが布団(ふとん)に入り、ひょいと天井を見ると、天井板にふし穴のような穴があった。ちょうど自分の胸の上のあたりだ。  「ありゃぁ何(なん)の穴じゃろうか。どうも変だ」 と、布団の中に枕を入れて人形(ひとがた)をつくり、自分は押入れに入って様子をうかがっていたと。  すると真夜中に、その穴から槍(やり)がおりてきて、布団を突きさした。  小僧さんはあぶないところを助かったと。  次の日もいくがいくがいくと、日が暮れた。  小僧さんは一軒のやぶれ寺を見つけて、その晩はそこに寝たと。  ところが、真夜中になって、天井をガタガタいわせて何かが出てくる気配(けはい)だ。  小僧さんは、こりゃぁ和尚さんのいわれたコウスイちゅうもんじゃろうか、と思い、コウスイならねずみの劫を経たモノだから、猫をおそろしがるにちがいない、と思案して、  「にゃお、にゃお」 と猫のなき声をした。  すると、案の定、今まで天井をガタガタさせていたモノが、どこかへ行ってしまった。  小僧さんは、和尚さんの言われた言葉で、三度まであぶないところを助かったと。 ”目上(めうえ)の意見(いけん)と茄子(なすび)の花(はな)は千に一(ひと)つも仇(あだ)がない”というてな、親や年寄りのいうことは、きちんと聴(き)くもんだ。  これきりべったり、ひらの蓋(ふた)。
124    3-1『まぁだまだわからん』 댓글:  조회:4005  추천:0  2011-11-22
3-1『まぁだまだわからん』   ―山口県―    今はクレジットカードの世の中ちゅうて、まんだ手にもしていない先(さき)の金(かね)を当てにして、物を買(こ)うたり、金を借りたり、そんな風だんが、金ちゅうは、手にしてはじめて使うもんじゃ。昔にこんな話がある。  むかし、むかし、大層(たいそう)日照(ひで)りの続いた年があった。蕎麦(そば)をまきたくとも、雨がひとつぶも降らない。いくら待っても日照りばかり。  かといって、まきどきをはずすと実がならん。とうとう、思いきってまいたと。  何日かたって孫が畑へ行ってみたら、蕎麦が生(は)えていたと。それを見て孫が大層喜び、畑から大いそぎで帰ってくると、大きな声で、  「爺(じい)さ、爺さ、蕎麦がはえちょるでの、雨が降らんけえ生えんかと思うたが、生えよらぁな」 というて、大さわぎだ。それを聞いた爺さが、  「へえーん、そうかぁの、蕎麦は少々(しょうしょう)日照りでも生えるちゅうことじゃが、今年のように日照りじゃぁどうかと思うたが、生えたかや」 というた。そしたら孫が、  「はあ、心配ないでの、爺、蕎麦は食えるでの」 と、はしゃいでいうた。爺は、  「うんな、まだ分からん。ものちゅうもんは、そねえ早よう騒ぐもんじゃない」 といさめたと。 それから何日かたって、孫が畑へ行ったら、蕎麦が大きくなって、うまいこと花が咲いた。  「爺さ、爺さ、畑一面蕎麦の花が真っ白う咲いちょるで、今度ぁ蕎麦は食える」  「うんな、うんな、まだ分からんて」  それからまた、何日か経(た)って、畑へ行ってみた孫が爺に、  「爺さ、爺さ、今度こそ心配ない。真っ黒い三角の実がいっぱいなっちょるけえ。今年は本当によう出来ちょる様(よう)なで。はあ、まちがいない。蕎麦は食える」 というと、爺さ、  「ものちゅうものは、そねえに、やぁやぁ言うもんじゃなあ。最後のどたんばまでは分からんもんじゃて」 と、いうた。  「まぁ、うれたちゅうんなら、蕎麦刈(か)りしようやぁ」 ということになって、蕎麦を刈って、干(ほ)して、それから家へ持って帰って、たたいて、いよいよ蕎麦の実になったと。孫が、  「早よう蕎麦食べよう。蕎麦食べよう」 というから、早速(さっそく)、臼(うす)へかけて粉をひいて、もろぶたへ入れて台所へ持って行った。  孫はそれを見て、やぁやぁいうて喜んだと。  囲炉裏(いろり)の端(はね)で、濃いいい茶を煮出して、茶碗(ちゃわん)に蕎麦の粉をいれて、グルグル、グルグルまわして、いよいよかき蕎麦が出来上ったと。  それを見た孫が、  「爺さ、爺さ、いよいよこれで蕎麦が食えるでの。今度ぁ、なんぼう爺さでも『んんなぁ未だ分からん』たぁ言うまぁの」 というたと。ところが、爺さ、また、  「んんな、未だ分からんてい。いよいよ口(くち)に入るまでは分からんてい」 というんだと。そしたら孫が、はぁはぁ笑(わろ)うて、  「爺さちゅうなぁ、なんと念(ねん)がいっちょるのう。これでも未だ分からんちゅうじゃけえ」 というた。  そしたら、どうしたはずみか、つい、茶碗がコロッとひっくり返って、前の囲炉裏の灰の中へ、ころげ落ちてしまったと。すると爺さ、  「そうら見いの。ものちゅうものは、いよいよ終(しま)いまで分からんちゅうんじゃい。今かたまで笑うていたが、どうかぁの」 というたと。  これきりべったりひらの蓋(ふた)。
123    나그네와 호랑이 그리고 여우 댓글:  조회:3423  추천:1  2011-11-18
나그네와 호랑이 그리고 여우 ―일본의야마가타껜설화― 번역; 연변대학 외국어학원 일본어학부 김정웅    옜날에 있은 일이라고 한다.   어느 여름날의 땡볕이 내리쬐는 때에 나그네가 길을 터벅터벅 걷고 있는데 우리에 갇혀있는 호랑이가  있었다고 한다.   모르는 척하고 지나갈려고 하니,  애처로운 목소리로   라고 말을 걸어왔다고 한다.    나그네는      라고 말하자, 범이 말하기를        라고 말하므로 범의 말을 믿고서 우리의 자물쇠를 열고 범을 내 놓았다.    그렇게 계속 배를 곯던 호랑이가 우리안에서 나오자,  나그네를 잡아먹고파서 참을수 없게 되였다고 한다.       나그네는 생각하고 나서,    라고 말하고 걷기 시작했다한다.    처음 만난것은 소였다고 한다.  소에게 물어서 대답을 기다린즉,  소가 말하기를     라고 말했다고한다.  범은 기세사납게 나그네에게 덮쳐들려고 했다고 한다. 라고 말하고 또 조금 걸었더니 땀에 흠뻑 젖어 길옆의 큰  나무 아래에서 휴식을 했다고 한다. 거기서 큰 나무에게 물었다고 한다. 그러 자 큰나무는,         고 말했다고 한다.  나그네는,   고 말하고서는 다시 걸어 갔더니 이번엔 여우와 만났다고 한다.  자초지종을 말하고 나서 대답을 물은즉,  여우는 열심히 생각하고 나 서, 라고 말하므로 나그네는 범과 여우를 데리고 다시 오던 길을 되돌아갔다고 한다.  그래서 범은 또 다시 우리속에 되들어가게 되였다고 한다. 그리고 자물쇠를 잠그었다고 한다. >라고 여우가 말하므로 나그네는 겨우 안심 하고 길을 걸어갔다고 한다.  
122    동북아세아의 발전을 향하여 댓글:  조회:2048  추천:0  2011-11-18
동북아세아의 발전을 향하여   후쿠이현립대학(福井県立大学) 학장(学長): 시모타니 마사히로(下谷 政弘)        오늘 연변대학에서 주최하는 국제학술포럼에 초청받게 된것을 매우 감사하게 생각합니다. 그리고 많은 학자 여러분들과 만나게 된것을 큰 영광으로 생각합니다.        연변대학은 작년에 개교60주년을 맞이한 유서 깊은 대학이라고 들었습니다. 나는 이번에 처음으로 귀대학을 방문합니다. 규모가 대단히 크고 또 멋진 분위기를 가진 캠퍼스를 보고 큰 감명을 받았습니다.     연변대학은 긴 력사와 휘황한 전통을 자랑하고 있습니다. 그리고 가장 큰 특색은 그 지리적인 요인으로 인한, 중조한일4개국에 이르는 다국간 학술교류의 장점을 최대한 발휘할수 있다는 점이 아니겠는가고 생각하여 봅니다. 실제로 이번과 같은 형식의 국제포럼을 주도할수 있는 것은, 중국이 넓다고는 하지만 연변대학을 제외한 다른 곳에서는 할수 없으리라고 생각합니다. 나는 지금까지 연변대학이 동북아세아서국간의 학술교류를 추진하기 위하여 힘써 온 노력과 실적에 깊은 경의를 표시합니다. 그럼과 동시에 앞으로도 한층 더 주도적인 역할을 발휘하리라고 굳게 믿고 있습니다.     다행스럽게도 최근 중국정부는 국가적 차원의 개발계획으로, 이지역을 포함한 장춘으로 부터 도문에 이르는 지역을 개발개방의 ‘선도구’로 지정하였다는 것을 들었습니다. 이 지역이 금후 국가계획에 의한 발전과 더불어 동북아세아 전체의 안정과 발전에 다시 없는 챤스를 제공하게 될것이라고 생각합니다. 그런 의미에서도 본국제학술포럼에서 각국의 연구자 여러분들간에 활발한 의론이 오갈것을 기대합니다.        그런데, 일본에서도1990년대에는 ‘도문강지역개발계획’에 대한 관심이 높았습니다. 이 지역이 장래  ‘동북아세아발전의 삼감지대’로서의 중핵이 될것이라는 많은 기대를 하고 있었습니다. 하지만 유감스럽게도 그 당시의 동북아세아에는 이와 같은 다국간에 걸치는 대규모의 개발계획을 실현할수 있을 정도의 상호간 신뢰관계가 충분히 온양되여 있지 못한 상황이였습니다. 오늘에 이르러서도 동북아세아에는 아직 엄혹한 정치상황이 계속되고 있습니다. 하지만 그러한 상황이 있기 때문에야 말로 이번과 같은 국제적인 학술교류를 통하여 상호간의 리해와 우정을 보다 깊이 하기 위한 노력을 더욱더 강조할것이 필요한것이 아닐가요?!  미력하지만 지금과 같은 상황을 뛰여넘기 위한 노력을 한보한보 진척시키는 것 외에는 다른 길은 없는 것이라고  생각하고 있습니다.        21세기는 ‘동아세아의 시대’라고 말하고 있습니다. 실제 세계경제의 중심은 동아세아 속에서도 특히는 동북아세아에로 이동되고 있으며 동북아세아의 존재감이 급속하게 높아지고 있습니다. 일본경제는 그 속에서 지금까지의 경험과 실적들을 배경으로 하여 독자적인 역활을 하지않으면 않된다고 생각합니다. 동북아세아에는 아직도 정치적인 현안이 남아 있지만 이번과 같은 국제적인 학술교류를 지속적으로 진행하는 것이야 말로 동북아세아 여러 나라들지간의 상호리해를 보다 넓히는 가장 확실한 길이라고 생각합니다. 더우기는 연구자들간의 돈독한 우정과 인연을 쌓아가는 것에 의하여, 곤난을 극복하여 나아가기 위한 새로운 지혜가 생겨나오는것이 아니겠는가고 기대하고 있습니다.        본 도문강학술포럼이 동북아세아 전체의 한층 더 되는 발전에 있어서, 또 동북아세아 여러 나라들 지간의 신뢰관계를 만들어 감에 있어서, 알 찬 포럼이 될것을 마음속으로 빕니다.        마지막으로 이 국제학술포럼을 준비하고 운영하여 오신 조직위원회 여러분들께 진심으로 되는 감사의 인사를 올립니다.   번역: 김저웅(연변대학 외국어학원 일본어학부) 2010년11월27일 [원문] 北東アジアの発展に向けて                             福井県立大学                          学長 下谷政弘      本日は、延辺大学の主催による国際学術フォーラムにお招きいただき、ありがとうございました。また、多数の研究者の皆様方に会うことができまして、大変光栄に思っています。  延辺大学は、昨年に開学60周年を迎えた由緒ある大学だと聞いております。私は今回、初めて貴学を訪問しましたが、大変に広大で、またすばらしい雰囲気のキャンパスを拝見して、大いに感銘を受けました。  延辺大学は長い歴史と輝かしい伝統を誇っています。また、大きな特色は、その地理的な要因から、中・朝・韓・日4カ国にまたがる学術交流のイニシアティブを存分に発揮することができる点にあると考えています。実際、今回のような形での国際学術フォーラムを主導できるのは、中国広しといえども延辺大学を置いて他にはないだろうと思います。私は、これまで延辺大学が北東アジア諸国間における学術交流の推進に向けて積み上げてこられた努力と実績に深い敬意を表します。それとともに、これからも一層主導的な役割を果たしていかれることを強く期待しております。  幸いにも最近、中国政府は、国家レベルでの開発計画として、この地域を含めた長春から図們に至る地域を、開発開放の「先導区」に指定したと聞いております。この地域が今後とも国家計画に沿って発展することは、おそらく北東アジア全体の安定と発展にとってまたとない機会を提供することになるものと思われます。その意味でも、この国際学術フォーラムにおいて、各国の研究者の皆様方の間で活発な議論が交わされることを期待いたします。 ところで、日本でも、1990年代には「図們江地域開発計画」への関心が高まりました。この地域が将来的に北東アジアの「成長の三角地帯」の核になるのではないかと、多くの期待を集めてきました。しかし、残念ながら、その当時の北東アジアでは、このような多国間にまたがる大規模な開発計画を実現できるほどに、相互の信頼関係は十分には醸成されていませんでした。今日でも、北東アジアにおいてはまだまだ厳しい政治状況が続いています。しかしながら、そのような状況であるからこそ、今回のような国際的な学術交流を通じて、相互の理解と友情を深める努力を一層強めていくことが必要ではないでしょうか。たとえ微力ではあっても、今は厳しい状況を乗り越える努力を一歩一歩進めていく以外に途はないものと考えております。  この21世紀は「東アジアの時代」であるといわれています。実際、世界経済の中心は、東アジアのなかでもとくに北東アジアへと移りつつあり、北東アジアの存在感が急速に高まりつつあります。日本経済は、そのなかでこれまでの経験と実績とを踏まえて、独自の役割を果たしていかねばならないと考えています。北東アジアにはまだまだ政治的な懸案が残っていますが、今回のような国際的な学術交流を続けていくことこそが、北東アジア諸国間の相互理解をより深めるもっとも確実な途だと思います。さらに、研究者間での友情の絆を強めることによって、困難を乗り越えていくための新たな知恵が生まれてくるのではないかと期待しております。  今回の図們江学術フォーラムが、北東アジア全体の一層の発展にとって、また北東アジア諸国相互の信頼関係の醸成にとって、実り多いものになることを心より願っております。  最後になりましたが、この国際学術フォーラムを準備・運営してこられました組織委員会の皆様方に、心より感謝申し上げます。 翻訳:延辺大学 外国語学院 日本語学部 金正雄
121    일본의 고대도시와 동아세아 교류 댓글:  조회:2133  추천:0  2011-11-18
일본의 고대도시와 동아세아 교류   국제일본문화연구센터 우노다카오 번역:김정웅 1 머리말   일본열도에 있어서 동아세아 여러 지역과의 문물교류는 구석기시대로부터 현대에 이르기 까지 빈번하게 진행되어 왔고 그 사회발전의 원동력으로 되어 왔다. 문명의 형성에 있어서 중요한 위치를 점하고 있는 도시건설에 관해서도 같은 배경 속에서 추이했다.   도시의 정의는 여러 가지 있지만 5~10헥타르 이상의 규모, 밀집한 거주 와 계획적인 배치, 해자(垓字)와 성벽과 같은 도시의 내외를 구분 짓는 시설의 존재 등을 지표라고 할 때 , 일본렬도에는 야요이(弥生)시대의 환호집락(環濠集落)에 고대도시의 단서가 있으며 후지하라꾜(藤原京)·헤이죠꾜(平城京)·헤이안꾜(平安京)라고 하는 일본율령국가의 수도가 그 완성형태라고 생각할 수 있다.    이 일본열도의 고대도시는 연속적으로 발전한 것이 아니고 야요이(弥生)시대의 환호집락(環濠集落)이 한번 두절 된 다음 부활하는 과정을 경과하였다. 이 현상도 동아세아 교류에서 그 뿌리를 찾을 수 있다고 말하고 싶다. 2 환호집락(環濠集落)의 형성과 쇠태   일본열도의 야요이시대 초기, 규슈(九州)북부에서 환호집락(環濠集落)의 건설이 시작되고 신속하게 일본서부와 일본중부에 퍼져나갔다. 후쿠오카(福岡)현의 이타츠키유적(板付遺跡)을 비롯하는 야요이환호집락(弥生環濠集落)의 해자(垓字)는 지형에 맞추었기 때문에 고정된 형식이 없고 동시대의 중국의 성시에서 보여지는 판축(版築)에 이용한 성벽축조기술이 없었다.   야요이환호집락(弥生環濠集落)의 먼 기원은 중국섬서성강새(姜塞)유적과 반파(半坡)유적과 같은 신석기시대전반기의 계보를 이어, 직접적으로는 동북아세아로부터 영향을 받아 성립한 것이라고 추정된다. 특히는 한국 경상남도 울산광역시 검단리유적과 같은 환호집락의 직접적인 영향 밑에서 성립한 것이라고 보인다.   야요이환호집락(弥生環濠集落)은 규모가 크고 다중의 해자(垓字)를 가지고 있거나 지금까지 조선반도에서는 발견되지 않은 특색을 볼 수도 있다. 하지만 언젠가는 환호집락이 조선반도에서도 발견될 가능성이 높을 것이다. 중국에서는 하남성정주상성(河南省鄭州商城)을 비롯하여 전국시대의 성시에 이르기까지 외성과 내성 혹은 대성과 소성으로 이루어지는 것이 있고, 조선반도를 통하여 야요이환호집락의 다중환호(다중해자)설계와 어떠한 관련이 있을 가능성이 있다.   야요이시대의 환호집락은 야요이시대를 계속하여 존재했지만 야요이후기에는 수가 줄어 야요이시대말기에는 거의 멸종했다. 그 결과, 내성·소성에 상당하는 작은 구화(区画)가 거관(居館)으로 독립하고 외성과 대성의 거주자는 공간적으로 분리되여 분산적으로 살게 되었다.   이것은 야요이시대의 전란과 연결하여 이해하는 것이 만지만, 본격적인 환호집락은 최초로 건설되고 그 밀집 지대이던 규슈(九州)북부의 후쿠오카(福岡)평원에 있어서 가장 빨리 환호집락이 쇠퇴했다는 것에 주목하여 두고 싶다. 후쿠오카(福岡)평원에서는 기원1세기를 중심으로 하여 전한경(前漢鏡)을 수입할 즈음에는 벌써 환호주락이 없어졌다. 그것을 대신하여 후쿠오카평원에 범위가 넓게 직선도로가 건설되었을 가능성이 있다.   이 때는 중국정사(한서)에 왜인이 파견한 사절이 처음으로 기록된 때이며 그 대부분은 규슈북부의 유력자가 사절을 파견한 것으로 추정된다. 또 그 경에 왜가 100여개 국가로 나뉘어 통합하는 과정이었고 평화로운 시대였다고 생각하기에는 힘들다.   기원전1세기에 왜인이 사절을 파견한 전한(前漢)의 장안성(長安城)을 보면 그것이 전국시대까지의 성시와 크게 다른 것을 알 수 있다. 전한의 장안성은 대규모이지만 그 대다수가 궁전지구였다. 그리고 종전의 외성·대성에 거주하고 있던 상공업자를 비롯한 일반민중은 주로 능읍(陵邑)등에 분산 거주하였다고 생각된다. 그리하여 장안성에 거주하는 관중평원(関中平野)에는 장안과 마찬가지로 직선도로가 설계·건설되어 있었다고 생각할 수 있다.   이렇게 본다면, 당시의 일본열도에 있어서 가장 고도의 사회를 형성하고 있었던 후쿠오카평원에 노예제국가를 중심으로 하는 나라들은 전한제국(前漢帝国)의 원리를 잘 이해하고 그것을 자기들의 지배영역에서 재현할려고 했던것이 형태가 불정형적인 해자를 가진 환호집락을 버린 유력한 배경이었다고 추정하여 두고 싶다. 환호집락의 쇠퇴경향은 이러한 한제국 도성 정보의 전파와 채용과정을 나타내고 있다는 것을 반영하였을 가능성이 아주 높다.   중국에서는 삼국시대이후 이방(里坊)을 가진 도성이 부활하지만 일본에서는 고분(古墳)시대를 통하여 서력6세기까지 궁전·거관을 독립시켜 건설하는 방식이 계속되었다. 이 시대는 중국주변의 여러 세력이 강장 독자적인 특색이 있는 경영을 한 시대이며 왜도 그 일례로 될것이다. 3 고대도성의 건설과 동아세아교류 일본열도에서는 서력7세기말에 이르러 본격적인 도성건설이 개시되었지만, 거기에는 동아세아교류 혹은 강대화한 수당제국을 축으로 하는 국제적인 긴장관계라는 배경이 존재했다는 것은 틀림이 없다.   그때까지의 일본열도의 유력자의 지배거점은 호족(豪族)의 거점이고, 그 정점에 대왕의 궁전이 있다. 그리고 대왕이 바뀔 때마다 새로운 궁전을 건설하는 것이 기본이었다(역대의 천궁). 이러한 존재방식을 일조일석에 고쳐서 도성을 건설하는 것은 당시의 지배층에 있어서는 어려운 일이 였고 비조(飛鳥)시대(서력6세기말~7세기)가 견수사(遣隋使)파견을 계기로 하는 중요한 준비기간이였다.   비조시대의 최대의 변혁은 일시적인 오오사카·난파관(難波宮)에로의 이전을 예외로 하여, 궁전을 나라현(奈良県)남부·비조의 작은 공간에 고정한 것에 있다. 그 중요한 계기는 서력588년에 백제·고구려와의 관계에 있어서 가능하게 된 비조사(飛鳥寺)의 건설에서 찾아볼 수 있을 것이다. 불교는 원래부터 인도·중국을 경유하여 동북아세아에 전파된 것이지만, 그 사회적인 위치에는 큰 차이가 존재했던 것 같다. 대당제국에 있어서는 불교가 중시되었던 시기도 있었는가하면 불교를 페기한 시기도 있었던 것에 비하여, 일본율령국가에서는 대개 일관하게 불교는 중요하게 여겨왔다. 또 발견된 사원과 사당의 수도 천개에 가깝고 국토의 크기에 비교하여 비상히 많은 수가 운영되었다. 이 것의 한가지 원인으로서, 비조사 건립이 율법국가건설의 기점의 하나이었다는 것을 알 수 있다.   비조사는 백제 도래인 기술자가 주도하여 건설되었지만, 그 방위는 정방위이였을 가능성이 높고, 일본에서 최초로 되는 천문관측에 의한 정방위 사당 건설이 되었을 것이라고 생각된다. 비조지역에는 이전부터 사행(斜行)하는 토지분할법이 있었지만, 7세기전반에는 정방위로 토지를 분할하는 궁전·사원을 정연히 배치했다. 이 것은 비조에 멈추지 않고 나라분지전체를 종단·횡단하는 정방위의 직선도로건설에 이어지고 그 후 도시건설의 기준선으로 되었다.   690년에 착공하여 694년에 천도한 후지하라꾜(藤原京)는, 일본의 처음으로 되는 본격적인 도성이다. 후지하라꾜(藤原京)에 대한 조사가 친전된 결과, 과거의 복원안이 부정되였으며, 그것은 헤이죠꾜·헤이안꾜를 초과하는 크기의 정방형이며, 동서·남북 각각 아홉 갈래의 대로로 10×10의 지구로 분할하여 중앙에 궁을 배치하고 있다.   후지하라꾜는 당나라의 장안성과는 크게 다른 것이다. 그리고 동아세아 율령국가는 도성을 건설한다는 점에 있어서는 공통하지만, 후지하라꾜와 같은 설계를 하는 것은 그 일례가 존재하지 않는다. 당시 일본과 당나라·신라는 군사적인 대립상태에 있고, 견당사의 파견이 중단되여 있던 시기에 해당한다. 그 때문에 장안성의 정보를 얻을 수 없었고, 중국의 고전인 ‘주례(周礼)’에 그려져 있는 이상의 도시를 기준으로 설계한 것이라는 설이 유력하다.   후지하라꾜는 일본이 당과 신라의 연합군에 의해 백촌강(白村江)전투에서 패한 후, 내란을 거쳐 정치권력의 통일이 실현되는 중에 건설한 것이다. 그것은 동아세아 여러 세력이 수당제국에 대항하여 가기 위하여서는 종래의 사회체제로서는 불가능하다는 것을 자각하고 율령국가의 건설을 목표로 한 것과 깊은 관계가 있다. 나는 당시 장안성의 정보가 결핍한 것이 아니라, 당의 책봉체제 밖에 있는 나라소서 독자의 국가건설을 목표로 한, 하나의 상징인 의미로서 후지하라꾜를 설계·시공한 것이라고 추정하고 있다.
120    日本の古代都市と東アジア交流 댓글:  조회:2142  추천:0  2011-11-18
  日本の古代都市と東アジア交流   国際日本文化研究センター・宇野隆夫   1 はじめに  日本列島において,東アジア諸地域との文物交流は,旧石器時代から現代に至るまで盛んであり,その社会発展の原動力となってきた。文明の形成において重要な都市建設についても,同様の背景の中で推移した。  都市の定義は色々あるが,5〜10ヘクタール以上の規模,密集した居住とその計画的配置,濠や城壁など都市の内と外を画する施設の存在,などを指標とすると,日本列島では弥生時代の環濠集落に古代都市の端緒があり,藤原京・平城京・平安京という日本律令国家の首都がその完成形態であると考えることができる。  この日本列島の古代都市は連続的に発展したものではなく,弥生時代の環濠集落が一度途絶えてから復活するという過程をへた。この現象も東アジア交流に根ざしたものであることを述べたい。   2 弥生環濠集落の成立と衰退  日本列島では弥生時代の初め(紀元前10世紀前後)に,北部九州で環濠集落の建設が始まり,速やかに西日本,中部日本に広まっていった。福岡県板付遺跡をはじめとする弥生環濠集落の濠は地形に合わせて不定形であり,同時代の中国の城市にみる版築による城壁築造の技術はない。  弥生環濠集落の遠い起源は,中国陝西省姜塞遺跡・半坡遺跡や山東省城頭山遺跡など新石器時代前半期のものの系譜をひき,直接的には東北アジアからの影響を受けて成立したものであると推定できる。とりわけ韓国慶尚南道蔚山市検丹里遺跡のような環濠集落の直接的な影響の下で成立したとみられる。  弥生環濠集落は規模が大きく,多重の濠をもつものがあるなど,今のところ朝鮮半島ではみつかっていない特色をみることができる。しかしいずれそのような環濠集落が朝鮮半島でも発見される可能性が高いであろう。中国では河南省鄭州商城をはじめとして戦国時代の城市に至るまで,外城と内城あるいは大城と小城からなるものがあり,弥生環濠集落の多重環濠のレイアウトとなんらかの,おそらくは朝鮮半島を介しての関係があった可能性がある。  弥生時代環濠集落は,弥生時代を通じて存在したが,弥生後期には数が少なくなり弥生時代の終わり頃(西暦3世紀頃)にほとんどが廃絶した。その結果,内城・小城に相当する小さな区画が居館として独立し,外城・大城の居住者は空間的に分離されて分散的に暮らすようになった。  このことは弥生時代の戦乱と結びつけて理解されることが多いが,本格的な環濠集落を最初に築き,またその密集地帯であった北部九州の福岡平野において,最も早く環濠集落が衰退したことに注目しておきたい。福岡平野では紀元前1世紀を中心とする前漢鏡を舶載する頃,いち早く環濠集落を営まなくなった。それに変わって福岡平野に広く直線道が建設された可能性がある。  この頃は中国正史(漢書)に倭人の遣使が初めて記録される頃であり,その多くは北部九州の有力者が遣使したものと推定できる。またこの頃は倭が百余国に別れて統合過程にあり平和な時代であったとは考えにくい。  紀元前1世紀に倭人が遣使した前漢長安城をみると,それが戦国時代までの城市と大きく異なることが分かる。前漢長安城は大規模ではあるが,その大多数が宮殿地区であった。そして従来は外城・大城に居住しいていた商工業者をはじめとする一般民衆は,主に陵邑などに分散居住したと考えられる。そして長安城が所在する関中平野には長安城と一体的に直線道路が設計・施行されていたと考えられる。  このようにみるなら,当時の日本列島において最も高度な社会を形成していた福岡平野の奴国を中心とする国々は,前漢帝国の都城建設の原理をよく理解し,それを自らの支配領域において再現しようとしたことが,不定形な濠をもつ環濠集落を捨てた有力な背景であったと推定しておきたい。環濠集落の衰退傾向は,このような漢帝国の都城の情報の伝搬・採用過程を示している可能性が高い。  中国では,三国時代以後,里坊をもつ都城が復活していくが,日本では古墳時代を通じて西暦6世紀まで宮殿・居館を独立させて建設する方式が続いた。この時代は中国周辺の諸勢力が最も独自色のある営みをした時代であり,倭もその一例になるであろう。   3 古代都城の建設と東アジア交流  日本列島では,西暦7世紀末に至って本格的な都城建設を開始したが,そこに東アジア交流,あるいは強大化した隋唐帝国を軸とする国際的な緊張関係という背景が存在したことは間違いない。  それまでの日本列島の有力者の支配拠点は豪族の居館であり,その頂点に大王の宮殿があった。そして大王が代替わりする毎に新しい宮殿を建設することが基本であった(歴代遷宮)。このようなあり方を一朝一夕に改めて都城を建設することは当時の支配層にとっては難しいことであり,飛鳥時代(西暦6世紀期末〜7世紀)が,遣隋使派遣を契機とする重要な準備期間であった。  飛鳥時代の最大の変革は,一時的な大阪・難波宮への移転を例外として,宮殿を奈良県南部・飛鳥の小空間に固定したことにある。その重要な契機は西暦588年に百済・高句麗との関係によって可能となった飛鳥寺の建設に求められるであろう。仏教は,もとよりインド・中国をへて東北アジアに広まったものであるが,その社会的に位置には大きな違いが存在したようである。唐帝国においては仏教が重視された時期もあれば廃仏に時期もあったことに比べて,日本律令国家ではほぼ一貫して仏教は重要であった。また発見された寺院・堂の数も千に近く,国土の広さに比較して非常に多くの数が営まれた。このことの一因に,飛鳥寺建立が律令国家建設の起点の一つであったことがあると思われる。  飛鳥寺は,百済渡来の技術者が主導して建設されたが,その方位は正方位であった可能性が高く,日本で最初の天文観測による正方位の地割の施行がなされたと考えられる。飛鳥地域には従来,斜行する地割があったが,7世紀前半には正方位の地割がなされて宮殿・寺院を整然と配置した。このことは飛鳥にとどまらず,奈良盆地全体を縦断・横断する正方位の直線道路建設につらなり,後に都城建設の基準線となった。  690年に着工して694年に遷都した藤原京は,日本の本格的な都城として最初のものであった。藤原京は調査が進展した結果,過去の復元案が否定され,平城京・平安京をしのぐ大きさの正方形であり,東西・南北各9条の大路で10×10の地区に区画しその中央に宮を配置している。  藤原京は,唐長安城とは非常に異なるものである。そして東アジアの律令国家は都城を建設するという点においては共通していたが,藤原京と同じレイアウトをとるものは,一例も存在しない。当時,日本と唐・新羅は軍事的な対立状態にあり,遣唐使の派遣が中断していた時期に当たる。そのため長安城の情報を得ることができず,中国の古典である『周礼』に描かれた理想の都市に準じて設計したとする説が有力である。  藤原京は,日本が唐・新羅に白村江で破れた後,内乱をへて政治権力の統一が実現される中で建設したものである。それは東アジアの諸勢力が隋唐帝国に対抗していくためには,従来の社会体制では不可能であることを自覚して律令国家の建設を目指したことと深く関わっていた。私は,当時,長安城の情報が乏しかったのではなく,唐の冊封体制の外にあって,独自の国家建設を目指した一つの象徴として藤原京を設計・施工したものと推定している。  西暦710年に遷都した平城京は,遣唐使派遣の復活を契機としたものであり,明確な平城京型の都城として建設した。宮を京の北端におくことをはじめ,唐長安城と平城京の共通点は多く,渤海上京龍泉府との共通点も多い。同時に,平城京は唐長安城の単なる縮小版ではなく,全体の形,羅城,条坊の数,宮の建物配置原理など,相違点も数多く存在した。おそらくこれらの相違点は,日本律令が唐律令に変更を加えていることと同様に,意図したものであり,冊封と東夷の中華帝国建設との微妙な位置にあった日本律令国家の独自性の表れであったと推察している。  4 結 び  以上,日本の弥生環濠集落と古代都城について,東アジア交流に焦点をあてて,その推移を考えた。そしてそのいずれも東北アジアあるいは中国王朝との関わりが重要であったと考えられる。  この中で,弥生環濠集落の盛衰が東アジア交流を背景とし,それほど明確な個性を発揮しなかったのに対して,古代都城は律令国家の形成という共通する社会基盤を形成しながら,それぞれの個性をより強く発揮したと考えた。  日本の弥生時代は国家形成過程の初期段階であり,国際情報・文物や漢帝国の力を背景とすることが非常に重要であった。これに対して,日本古墳時代や朝鮮三国時代は,中国周辺地域での国家形成の歩みが早まった時代であり,最も個性的な政治中心を作り競合していたと考えられる。古代律令国家の段階に至ると,諸勢力は古代国家形成の頂点をむかえると同時に,強大な隋唐帝国と対峙することとなった。この中で律令制度を採用し都城を建設したが,それぞれの古代国家の独自性が否定されることはなく,所々において個性を発揮したことを考古資料にみることができると思う。   参考文献 宇野隆夫2006「中国城市の発展過程と日本の都市形成」『東アジアの交流と地域諸相』思文閣出版,pp.53-67。 井上和人2008「日本古代都城造営の史的意義-東アジア世界の歴史潮流の中で-」『古代東アジア交流の総合的研究』国際日本文化研究センター。  
119    일본설화 읽는 방법 댓글:  조회:3167  추천:0  2011-11-15
       여기에 싣고 있는 일본설화들은 지난 년간 일본의 하나 밖에 없는 국영텔레비죤방송국인 NHK에서 긴 시간 걸쳐서 방송해 온 설화들을 모집 정리하여 실은것들이다.       이미 실은 설화들이 백여개이고 앞으로 여러번에 걸쳐 300여개를 실은 예정이다.       여기에 실을 예정인 300여개의 일본설화들은 일본의 각 지역을 대표로하는 설화들을 그 본지방의 지방방언으로 쓰고 있다. 방언이기에 동경방언을 중심으로하여 형성된 일본의 표준말하고는 다소 차이가 있으나 어느 정도의 일본어 읽기 능력을 가지고 있는 분들이라면 원작 해독에 큰 곤난은 없으리라고 생각된다.      일본의 행정구역은 47개의 도도후겐(都道府県)으로 되여 있으며, 각 지역마다 그지역을 대표하는 지방방언이 존재한다. 지역방언으로 된 일본설화 읽기를 통하여 일본의 각 지역의 지방방언을 리해하고 학습하는데도 어느 정도 도움이 되리라고 생각된다.       그리고 어느 나라를 물론하고 신화나 설화는 여러가지 문학쟝르가운데서 역사가 오라고 인류사회초기부터 존속했던 문학쟝르라고 할수 있으며 다른 지역사회 다른 민족과 다른 나라간의 문화교류속에서 발전되고 풍부하여진 문학쟝르이다. 하기에 일본설화속에서도 많은 중국적 혹은 한국적 요소가 존재하며, 더 나아가서는 세계 여러나라의 유사한  설화들을 발견할수 있을 것이며 비교문학에 흥취를 가진분들은 일본설화를 읽는 것을 통해 중일한비교설화의 힌트를 받을수도 있으리라고 생각한다. 2011년11월15일 김정웅   
118    2-55『竹伐(たけき)り爺(じい)』 댓글:  조회:3872  추천:0  2011-11-13
2-55『竹伐(たけき)り爺(じい)』   ―広島県―    むかし、あるところに竹伐り爺がおったと  ある日、爺が竹藪へ行って、カッツン、カッツン竹を伐(き)っていたら、そこを殿様の行列が、下に―、下に―、とお通りになったと。  「そこで竹伐るは何者だぁ」  「日本一の屁こき爺でござる」  「それじゃあ、ひとつこいてみよ」  「ここじゃあ竹の切り株が立って、ようこきません」  「そうか、それじゃあ、むしろの上でこいてみよ」  「むしろのひげが立って、こかれません」  「それじゃあ、たたみの上でこいてみよ」  「たたみの上じゃあ、尻(しり)が滑(すべ)って、ようこきません」  「それじゃあ、わしの肩の上でこいてみい。」  「殿様の肩の上じゃあ、おそれおおくてこかれません」  「かまわん、かまわん」  「なら、ひとつ、こかしてもらいます」 と、いうことになって、爺は殿様の肩の上へあがって、    錦(にしき)ザラザラ 黄金ザラザラ    スッペラポ―ンのポ―ン と、屁をこいたと。  その音があまりにいい音で、その上、じゃこうのようないい匂いを周囲(あたり)に放(はな)ったから、お供の衆もたまげて、何遍も匂いをかいでおったと。殿様は、  「こりゃ、まあ、不思議な爺じゃあ」 と、仰せになって、たくさんの褒美(ほうび)を下されたと。  そしたら、隣の爺がそれを聞きつけて、  「わしも、あんな褒美がもらいたい」 と思うたと。  次に殿様が村をお通りになる日に、竹藪に入って、カッツン、カッツン竹を伐っておったら、  「下に―、下に―」 と、来て、  「そこで竹伐るは、何者だあ」 と、お尋ねになった。  隣りの爺は、いばって、  「日本一の屁こき爺なるぞ」 と、いうた。  「それじゃあ、ひとつこいてみよ」  「ここじゃあ、竹の切り株が立ってようこけん」  「それじゃあ、むしろの上でこいてみよ」  「むしろのひげが立ってこかれん」  「それじゃあ、たたみの上でこいてみよ」  「たたみの上じゃあ、屁が滑って、ようこけん」  「それじゃあ、わしの肩の上でこいてみよかまわんぞ」  「なら、ひとつこかしてもらおうかい」  隣りの爺は、殿様の肩の上へあがって屁をこいたと。こいたはいいが、    備後備中(びんこびっちゅう)ビイチビチ    丹後但馬(たんごたじま)のタアラタラ と、いうて、下(くだ)りっ腹の匂いの素まで出してしくじったと。  「やや、お前、にせの屁こき爺め」 と、叱かられて、刀で尻を斬(き)られたと。  それで、泣き泣き家へ帰ったら、婆が出て来て、  「爺さ、爺さ、褒美はどこにある」 と、聞いた。隣りの爺、  「褒美どころか、尻を斬られたあ」 と、倒れてしまったと。 昔こっぷり。  
117    2-54『天人女房(てんにんにょうぼう)』 댓글:  조회:2581  추천:0  2011-11-13
2-54『天人女房(てんにんにょうぼう)』   ―岩手県和賀郡―    むかし、あるところに長兵衛という千刈百姓(せんかりひゃくしょう)がおったと。  長兵衛は芥子(けし)を作るのが上手で、前の千刈畑はみんな芥子ばかりであったと。わけても花の盛りは見事なもので、花畑には霞(かすみ)が棚引(たなび)き、天人も舞い遊ぶかと思われるほどだと。  あるとき、長兵衛が花畑を見廻りしていると、空から美しい音色がきこえてきて、せんじゃこうのほのほのとした匂いがして、綾衣(あやぎぬ)をなびかせた天人が、舞い下りて来た。  あれあれと見ているうちに、天人は綾衣を花にかけて、うつらうつらと眠ってしまった。  長兵衛は、横からみても縦から見ても美しい天人に、すっかり魂を飛ばせて、何とかしてこの天人を女房にしたいものだと思った。  そこで、そろっと行って、天人の綾衣を花の中へ隠し、そしらぬ振りをしていたと。  夕方になって天人はようやく目を覚(さ)ました。天に帰ろうとすると、綾衣がない。  千刈畑の中を、あれやこれやと探し廻ったが、どれが花やら綾衣やら、探しあてることが出来なかったと。  長兵衛はそれを見ると、得たりとばかり、  「姉(あね)さま、何探してるな」 と、とぼけて聞いた。 天人は、綾衣がなくては天へ帰られない、と嘆いた。  「ははあ、それならさっき風が吹いて、花の中を、あっちにヒラヒラ、こっちにヒラヒラ飛んでいたが、はて、どこへ行ったか。千刈の芥子畑だ、とても探しようがない。花が散って、芥子坊主になるまで待たにゃぁ判らん」 というた。そればかりか、  「天に帰れないのなら、まずまず俺のところにごされ」 と、天人を自分の家へ連れて帰り、この家の人としたと。  さて、芥子の花が散る頃になると、天人は約束の綾衣を探してと頼んだと。  長兵衛は、天人を何としても離したくない。  「いやいや、花は散ったけれども、まだ葉が青々しているから」 と、探さなかったと。  その葉も落ちる頃になると、また、日に夜にかけて口説(くど)かれるので、長兵衛は仕方なくそれでは、と芥子畑へ行ってみた。  そしたら、隠しておいた綾衣は、雨風にさらされて着られるものじゃない。  それを知った天人は、泣いて泣いて、泣き暮れる毎日だ。長兵衛は可愛そうになって、  「実は、お前を女房にしたくて俺が綾衣を隠したんだ。償(つぐな)いに、望むことがあったら、なんでもしてやる」 というたと。そしたら、天人は、  「それでは、蓮田(はすだ)へ行って、蓮の花の茎(くき)を千本とってきて下さい。私はそれで糸を紡(つむ)ぐから」 と頼んだと。 長兵衛は、あちこちと駈(か)けめぐって、それを集めたと。  天人は、その花茎千本で、目に見えないほどの蓮の糸を紡ぎ、機(はた)にかけて、目も覚(さ)めるような綾衣を織り上げたと。  その織りあげた日から、三七、二十一日目に、玉のような男の子を生んだ。  そしたらある日、  「お名残(なご)り惜しいことですが、もはや私の天の下での命がつきる日が来ました。この子は乳がなくても育つ天人子(てんにんこ)ですが、もしもむづかるときがあったら、芥子畑へ連れて来て、芥子の花びらに乗っている朝露夕露を吸わせて下さい」 と、かなしそうにいうたと。  そして、綾衣を身につけて、フワフワと空高く舞い上(あが)って、天へ帰ってしまったと。  その後、長兵衛は天人が恋しくなると、その子を抱いて芥子畑に立っておったが、そのたびに空から美しい音色(ねいろ)が響いてきて、天人の、長兵衛よぶ子よぶ声が聞こえたそうな。  そんどはれぇ。  
116    2-53『カッパの墓』 댓글:  조회:2801  추천:0  2011-11-13
 2-53『カッパの墓』 ―秋田県―    カッパの話か? あるな、このあたりにも。  そこの雄物川(おものがわ)な、来るときに見たべ。秋田平野を二つに割って流れる秋田一の川だ。その川におるっちゅうな。カッパが。  雄物川のカッパは、四月にまいたソバの茎(くき)がのびて赤くなる頃から、九月の末(すえ)花が真白に咲く頃までいると言われとる。その間に川泳ぎに行った子供がカッパにさらわれ、尻から肝(きも)を抜かれ、おらの友達も、かあいそうに何人か死んだ。  だがな、カッパのなかにも冒険好きなやつがいて、ソバの花が終っても帰らないのがいたんだと。  はじめのうちはすいすいと遊んでおったが、雪国のことだ、そのうち雪やあられが落ちはじめたと。  カッパの頭には皿コがあって、カッパにとっては何より大切なものなんだと。その皿コにあられがカチンカチン当たる。カッパは今までぜんぜん知らん世界のことだもんで、何ぼかあわてたもんだべな。  急いで川からあがり、あたりをきょろきょろ見まわしながら走りまわって、お寺の前の蓮沼を見つけて飛び込み、蓮の葉っぱの下にもぐり込んだと。そして葉っぱを笠(かさ)のかわりにして、ほっとしたと。  だが、この葉っぱも寒くなるにつれ枯れてきて、破れて水の中に沈んでいったと。  「困ったなあ」 と、思案しているところを、お寺の和尚さんに見つけられたと。  「おや、カッパコでねか。お前また何で皆と一緒に行かねかったんだ。大変なしくじりをしてしまったな」 と、声をかけられたが、カッパは、  「人間に見つけられてはたまらない」 と思って、泥の中に、すい―っと潜(もぐ)っていったと。和尚さんは、  「カッパコよ、おらなの何もおっかなくねえんだ。困ったら寺に来い」 と言って、山門(さんもん)をくぐって行った。  カッパはよほど気の強いやつだったかしてそのまま泥の中にいたわけだ。  だが、ある日とうとう冬の前触れの大嵐が吹き、それとともに大きいあられが降ってきて、カッパの皿コをカツンカツンと叩きはじめたと。  カッパはどこかに隠れ場所をさがそうと、あちこち走りまわるうち、皿コは傷つき、頭から血が流れてきた。痛いのと驚いたのと、何とも言いようのない恐(おそ)ろしさに川の方へ真っしぐらに走っていき、水の中に潜ったと。  だが、皿コの傷はしみるし、痛むし、我慢できなくて、陸(おか)へあがったり水に潜(もぐ)ったり、何十遍もくりかえすうちに、とうとう陸へあがったまま動けなくなってしまったと。  カッパは皿コの水が無くなれば力も何も無くなるために、自然に消えるように死んでいったと。その上に雪が降り積ったと。  春になったある日、寺の和尚さんは、ミイラのようになって死んでいるカッパを見つけた。  「おやっ、カッパコ。お前なんとしたべと思っていたら、死んでしまっていたのか。かあいそうに」 と言って、雄物川の見える山の上に墓を建て、  「カッパコや、またソバの茎の赤くなる頃、お前の仲間たちが集まってくるべ。ここからながめておれな」 と話しかけて、ていねいに弔(とむら)いをしてやったと。  それからというもの、この村ではカッパにさらわれたという話も聞かなくなったが、冒険好きのカッパの墓もどこにあるのか、今では知る人もいない。  こうした話を聞かなくなって、さびしいことだな。  これきってとっぴんぱらりのぷう
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